中村さんの山行記を紹介します。
原発、政治などに幅広い話題、意見をお持ちですが、ここでは山行記、特に2014年の圧巻の活動を紹介します。
日本各地だけでなく、世界のキナバル山、キリマンジャロ、ネパール・ヒマラヤ等を登られています。
この頁は編集途中です。 「ボラの窓」編集部より
中村由博 山行記
毎週金曜日は自然と国会周辺に足が向きます。
全原発の廃炉を実現させるまで、自分のできうることをやっていくつもりです。
好きな山を思う存分に楽しみ、脱・反原発の運動をライフワークにしていきたいと思います。
雪の太平山 2014・2・23(日)
中村由博
昨年の9月に男体山で知り合った若い山仲間4名と一緒に太平山へ行ってきた。
太平山麓の大中寺に9:00amに待ち合わせて山門をくぐり由緒ある古寺(大中寺)を見学してから登山道に入った。道は南面でありかつ標高が低く残雪は皆無だったので、難なく謙信平に着いた。ここで「路傍の石」の山本有三記念碑を拝見し、謙信平から一望できる関東平野を目の前にした。残念ながらガスがかかっており、スカイツリーが確認できなかった。ここから太平山神社を参拝してから縦走路に入った。縦走路には雪が張り付き、スリップに気をつけながら大平神社奥社を経て「ぐみの木峠」で一休みした。そこで全員の集合記念撮影のために通りかかった登山者にシャッターを頼んだ。シャッターを押してもらった後、その人が私に「香日向の人ではありませんか?」と訊ねてきた。ナント彼は私が在住いている同じ町に住んでいる人だった。この偶然の出会いにお互いに驚いた。山はいろいろなことに感動を与えてくれる。この魔力がタマラナイ!
ぐみの木峠から晃石山までは積雪が20~30cmの本格的な雪山と化していた。所々に凍結箇所があり注意深く歩を進めて晃石山に登頂した。山頂からの景色は日光連山が広がりその中でも男体山が堂々としていた。同行している若者達とは男体山の頂上で出逢った縁なので格別な想いに浸った。
下山は清水寺経由で大中寺へ向かい12時過ぎに大中寺駐車場脇の広場に着いた。
早速シャンペンで乾杯し、持参したガスバーナーと鍋で餃子・ウインナー・おでんそしてうどんを温めて食べながら、山を媒介したいろいろな話に花が咲き大いに盛り上がった。
同行した若者の一人に鳥取県出身者がいたので、鳥取県在住の医師「徳永進」さんが話題となって語り合った。
私は徳永進さんの著書を何冊か読んでいたので、その中の1冊を思い出した。
自分の生まれた日を、誰も忘れない。らいを病んだ人たちは、生まれた日のほかにもうひとつ、
忘れることのできない日を持っている。生まれた日は、他人に教えられ、くり返すことで覚えたものだが、らい者の持っているもう一つの日は、自分自身の体験の中で、深く記憶にとどめられたものである。
生まれた日が人間として社会的に認められた日とするなら、もう一つの日は、人間として社会的に認められなくなったと言えるのかも知れない。らい者は深い悲しみと怒りと恨みの心をもって、その日を見つめている。それは故郷から、らい療養所へと隔離された日である。
― 徳永進 著 「隔離」らいを病んだ故郷の人達 より―
今山行はまたまた世代を超えた交流が成功し、彼らから素晴らしいエネルギーを頂戴した。彼らに感謝したい。
キナバル山(4095m) 2014・4・28(月)~5・5(月)
北八ヶ岳縦走 2014・5・17(土)~18(日)
北八ヶ岳縦走 2014・5・17(土)~18(日)
中村由博
北八ヶ岳ロープウェイに乗り、標高差約500mをたったの7分間で2233mの山頂駅に運ばれた。改札口を出ると急に空気が違ってくる。真夏でもひんやりとした風が我々をいつも歓迎し、雲上のパラダイスを醸し出す。過去に何度もここで味わうこの空気がたまらない。この日の天候はどこまでも透き通った青空が展開していた。
坪庭はゴツゴツとした安山岩の塊状溶岩でとても粗々しいが、しっかりとした遊歩道があるので歩きやすく、1周30分ほどなので観光客も散策に訪れていた。
9:10amに夏道の坪庭から北横岳へ向うと、大きな岩場の狭間には雪が詰まって凍結箇所が出てきたので注意深く進んだ。北横岳ヒュッテを過ぎると雪の厚さ20cm~30cmの雪道となったが、持参した4本爪の軽アイゼンを装着することもなく一汗かきながら進めば南峰に出た。ここへ出ると南に続く八ヶ岳の峰々が見渡せ、さらに南アルプス~中央アルプス~御嶽山~北アルプスの眺望にいつも感動する。そして北峰に足を運べば、手が届くような位置にある蓼科山がポツンと孤高を保っていた。(10:00)
山頂にいた3名の登山者たちにカメラのシャッターを頼まれた。バックを蓼科山そして八ヶ岳南部にしてシャッターを押して、早速下山した。ここで何を勘違いしたのか、ちょっと前に北横岳南峰から来た道から外れてしまった。少し下りた地点ですぐに気が付いたので引き返したが、シャッターを押すために小さいカメラのファインダーを覗いて方向感覚が狂ったようだ。絶対に間違えることのない地点で間違えてしまった。過去に何回も来ている過信がミスを誘引したことを猛省した。これで20分ほどのロスタイムが生じたが、下山は上りよりも凍結した雪に気を付けながら歩き、坪庭から縞枯山荘脇を通って雨池峠に着いた。(11:10)
ここから目指す縞枯山へはコメツガやシラビソなどの樹林に囲まれて陽光は通らない道となった。腐った残雪上のこの時季はスッポリと膝まで雪をぶち抜くときもあったので慎重になった。先行する登山者はいなかったので、雪上のトレースは消えていたが、過去に来ているからと思い、上へ上へと向かったが登山道から外れてしまった。しかし、この上が縞枯山の山頂があると確信して、木々の間の雪に難渋しながらも進んだ。足下の雪そして薮漕ぎに喘ぎながらも縞枯山・茶臼山間の縦走路にやっとたどり着いた。(11:55)。今日、2度目の道迷となった。何か変だ!
ちょっと休んでから、鞍部に降りそこから茶臼山へ上り返して、山頂につけば神奈川県からやって来た高校生8名が休んでいた。彼らは自然観察クラブの部活の一環として麦草峠から縞枯山へ登った帰り道だった。若い高校生を見ていると、2ケ月前の職場を思い出す・・・。
その後は雪がミックスした道を一気に下りて麦草峠に着いた。(13:15)
日差しはまるで夏のように強く、車道や麦草ヒュッテ前の広場はすっかりと雪が解けていた。そこから白駒池へ下り、湖畔で休憩した。水辺には誰もおらず静かな湖面には周囲の自然が映り、波風もなく平和そのものであった。(14:05)
白駒池~高見石の急登をスリップに気を付けながら上り、今度はゴツゴツした大きな岩の高見石展望台から白駒池を上から眺めた。緑の樹林に囲まれた池が神秘的そして神々しく見え、しばらくその眺望を楽しんだ。(14:45-15:00)
ここまで来るのに計画していた時間よりかなり遅れていたので、当初予定していた中山峠からの東天狗岳の登頂を諦めて黒百合ヒュッテへ直行することにした。天狗岳へ登らないと決めたら、気持ちが急に楽になりゆっくりと中山を越えて、今夜宿泊する黒百合ヒュッテに16:25に無事に到着した。
5/18(日)無風快晴、氷点下5度。
朝食後5:45amにヒュッテの玄関に出れば遮蔽物などは一切存在しない透き通った青空が広がり、眩しい陽光が目にさした。昨日、登頂しなかった東天狗岳をチャレンジしようと思ったが、足下の雪はカチカチと凍結し4本爪軽アイゼンでは登頂は無理と判断して、奥蓼科渋の湯へ下山を決めた。(5:50am)
凍結した道を軽アイゼン装着のおかげで難なく奥蓼科渋の湯バス停に7:20に着いた。
コースタイム
5/17(土)ロープウェイ山頂駅出発9:10am ~ 坪庭 ~ 北横岳10:00 ~坪庭~
縞枯山荘~雨池峠11:10 ~縞枯山11:55 ~ 茶臼山12:20 ~ 麦草峠
13:15 13:30 ~ 白駒池14:05 ~ 高見石小屋14:43 15:00 ~
中山峠16:21 ~ 黒百合ヒュッテ16:30 宿泊
5/18(日)下山5:50am ~ 渋の湯7:21am バス8:30発 = 茅野駅着9:21
黒百合ヒュッテ玄関前
5月中旬だったので軽アイゼンを持参したが、軽率だった。やはり2000mを超える
八ヶ岳にはしっかりとしたアイゼンが必要だった。
富 士 山 2014・7・12(土)~13(日)
富 士 山 2014・7・12(土)~13(日)
中村由博
7・12(土)午前7時過ぎにJR国立駅で待ち合わせた山仲間Mさんと富士北麓駐車場に向かった。途中、中央自動車道の渋滞に巻き込まれたが、計画通りに富士北麓駐車場に着いた。早速シャトルバスに乗り換えて終点の富士山五合目で下車すれば、もう既に登山者や観光客が大勢いた。富士山が世界遺産に登録されて以来世界中から訪れる人々が急増し、肌の色が異なる人や日本人と思えば中国や韓国の人たちが押し寄せていた。この現象は世界遺産に登録される以前からあったので、やはり日本と云えば「富士山」になるのか? 外国にいるかのような錯覚をする程、外国人が多かった。天候は台風一過で上々だが、山頂方向を見上げれば雲が被っていた。しかし瞬く間に雲が風に吹かれて山頂付近が顔を出した。この間隙に記念撮影をして出発した。11:30am。
起伏がほとんどない広い道を30分ほどゆっくりと進めば6合目に出た。ここには富士登山センターがあり、富士登山の注意事項を日本語・英語・中国語でスピーカーから流していた。ここで有料200円の仮設トイレに入った。
6合目からは森林限界となり、視界からは緑が消えて赤茶色または黒っぽい火山噴出物上の登山道がジグザクに展開された。落石・土砂崩れ防止壁に囲まれた登山道をゆっくりと進んだ。夏の強い陽ざしを遮る日陰は全くない道であるが、幸いにも太陽は雲に隠れ気味で非常に助かった。五合目から小屋までの標高差が約1000mを5時間~6時間で歩けば良と睨んでいるので、慌てずにMさんの後に続いた。途中、八合目の山小屋前のベンチで休憩したときに、Mさんが自宅の菜園で丹精込めて育てたとりたての超新鮮なキュウリを頂いた。このキュウリの味は本当に美味しかった。水分をたっぷりと含んだ新鮮で極上の美味に酔いしれたと同時に疲れは吹き飛んだ。重いにもかかわらずキュウリを運んでご馳走してくれたMさんに感謝感激です。
Mさん!本当にありがとうございました。
Mさんのペースはさらに上がり、何軒かの山小屋の休憩ベンチも素通りして急峻なゴツゴツした岩場も難なくクリアして宿泊する山小屋(本八合目富士山ホテル)に16:00に到着した。 当初の計画では山小屋の到着時刻は17:30頃とセッテイングしていたので、誠にラッキーだった。
小屋に入るといきなり夕食のレトルトカレーを出され、なお且つ朝食弁当が手渡された。これは富士山頂でご来光に間に合うために、小屋からの出発時刻が午前2時にセッテイングしてあるのと同時に、これから続々とやってくる宿泊者をさばく方策である。部屋に入れば蚕棚の2段ベットに一人当たり寝袋と毛布1枚が並んでいた。(1枚の敷布団に2名の割り当てだった。)満席でびっしりと登山者が横になれば足の踏み場はなく、寝返りもできなかった。狭い寝床に多くの人が入れば、その「人いきれ」で暑くなった。この時期、山小屋での混雑模様はいつものことだと覚悟はしていたがもう辟易だ。17時に就寝したが、熟睡はできずに未明の1:30amに起床した。
7・13(日)2:00amに出発した。小屋の前には登山者が既に術つなぎとなり、満員の電車内と化していた。ヘッドランプで足下を照らして細心の注意を払い、少しずつ牛歩の如くしっかりと富士の岩肌に歩を進めた。途中、渋滞が何回もあって、寒さに震えた。登山者の行列で上も下も登山者のヘッドランプの灯りが点々と続き、ご来光を目指している登山者の多さを表していた。9合目を通過すると、いつの間にか山頂に立っている小屋が目の前に迫り、石の階段を登り切ると、そこが富士山頂だった。3:53am。
無事に登頂したという歓喜よりも、いち早く寒風よけの場所を探した。しかし、その場所は沢山の登頂者で既に占有されていた。仕方なく風が吹き荒ぶベンチに座り、寒さをこらえながら、うっすらと白みがかった天文薄明の東天からの「ご来光」を待った。しかし、うす雲が厚いベールとなって日の出を遮った。朝焼けがほんのりと朱色に照らしたが、太陽は雲に隠されて全く姿を見せなかった。神々しいご来光を拝むのが目的だったが、雲は厚くなるばかりで強風と寒さに耐えきれなかった。よって、剣ヶ峰に立つことを諦めてMさんと記念撮影をして下山を開始した。4:40am
下山は砂礫のブルドーザー道の滑りやすい下山専用ルートが6合目まで続き、スリップに気を付けながら順調に降りて、5合目バス乗り場に7:50amに無事に帰着した。
ご来光を拝めなかったけれども、気の合う山仲間のMさんと富士登山を無事に終えることができて感無量だった。
コースタイム
7・12(土)富士山五合目出発11:25am・・・本八合目富士山ホテル16:03 宿泊
7・13(日)出発2:00am・・・富士山頂上3:53 下山4:40・・・五合目7:47am
木 曾 御 嶽 山 (3067m) 2014・7・21(日)~22(月)
木 曾 御 嶽 山 (3067m) 2014・7・21(日)~22(月)
中村由博
7/21(月)に気心が知れているFさんご夫妻と我が夫婦の4名が木曾御嶽山7合目の「田の原」登山口で待ち合わせた。この日は連休の最終日であり、なお且つ関東甲信越地方の梅雨明けと同時であったので、沢山の登山者が御嶽山に殺到して駐車場は満杯だった。しかし、偶然にもその満車の一角に空きができたので、かろうじて駐車ができた。早目に到着していたFさんの機転が功を為して、とてもラッキーだった。さすがFさんです。感謝いたします。
登山準備を終えて、山頂方面を見上げても御嶽山頂は雲に覆われていた。直射日光が当たらないのは良いが、いつ降ってくるかわからない空模様に杞憂しながらも午前9時30分に田の原登山口を出発した。
鳥居をくぐって良く整備された緩い上りの登山道脇には自然遊歩道が敷かれていた。
歩きやすい道が大江大権現まで続き、そこからが急な階段状の本格的な登山道になった。樹林に囲まれた鬱蒼とした道を進めば、ちょっと開けた赤茶けた土が露出している「あかっぱげ」に出た。この辺りにまでは背丈ほどの木々が迫っていた。さらに高度を上げれば視界がぐっと開けた場所に木造のお堂が2つ立っており、これが金剛童子と呼ばれる地点で8合目であった。ここで休憩した。ここから森林限界となってごつごつとした黒っぽい大きな岩の間の通り道を注意深くゆっくりと歩いた。
9合目の一口水では雪渓があり、その周りにはハイマツが絨毯のように広がり、目を山頂方向に向ければ王滝頂上に建ててある白い山荘が目立ってきた。そして王滝頂上に着くと風が冷たく肌を刺した。社務所の脇を抜けると、赤茶けた山肌が露出し山頂方面に続いていた。高度計は3000mを指しており、ここまでくればもうひと踏ん張りと思い、牛歩の如く1歩ずつ進み剣ヶ峰直下の山小屋にやっと着いた。宿泊する頂上山荘に荷物を置いて、急であるがしっかりとした立派な石段を上がりやっと御嶽山頂上に達した。14:00。
3067mの山頂に立てば、ここまでの疲れは一気に吹き飛び、全員が笑顔になった。この笑顔がたまらない。全員が無事に登頂した喜びは格別なもので、早速記念撮影に興じた。どんなに辛くて苦しくても登頂したときのこの瞬間が最高だ。これが山の魅力の一つかもしれない。山と山仲間が醸し出す強い連帯感にコピット満足した。
ご一緒して戴いたFさんご夫妻に感謝いたします。
コースタイム
7/21(月)田の原登山口出発9:30am → 王滝山頂 → 御嶽山剣ヶ峰14:00
22(火)下山7:01am → 王滝 → 田の原登山口帰着11:02
家内は8年前に大病を患った後では、初めて3000m峰に登頂した。これは記念すべきことだ。大病をした者しかわからない体調に不安を感じながら、大地をしっかりと噛みしめるように下した足の運びはこの8年間の苦節を表しているようだった。
家内はゆっくりだが確実に歩を進めて登頂し、そして無事に下山した。見事にカムバックした陰にはトレーニングジムに毎日通って、エアロビックスやウォーキングに90分間ほど汗を流していた。自分の体調及び体力を知り、日々是努力の成果が木曾御嶽山を登頂させた。本当にご苦労様でした。
木曾御嶽山はアフリカ最高峰のキリマンジャロの山頂の平ぺったい形が何となく似ているような気がする。標高5895mのキリマンジャロと3067mの御嶽山とを比べること自体ナンセンスだが、2ヶ月後の9月にキリマンジャロ登頂の計画があるので、ほんの少しだけ練習になったような・・・!?
八ヶ岳・阿弥陀岳~赤岳 (2899m) 2014・7・28(月)~29(火)
八ヶ岳・阿弥陀岳~赤岳 (2899m) 2014・7・28(月)~29(火)
中村由博
梅雨が明けて1週間経ち、まさに夏山本番を迎えた7/28(月)の早朝、自治医科大駅で待ち合わせて、若い医学生Iさんの運転する乗用車に同乗して、一路八ヶ岳登山基地の美濃戸口へ向かった。先行していた他の4名のメンバーが美濃戸にある山小屋の駐車場を確保していてくれたおかげで、我々も美濃戸へ向かった。狭くて無舗装おまけに凸凹の林道上を大きく揺れながら山小屋「やまのこ村」の駐車場に到着した。美濃戸口から美濃戸まで歩けば1時間程かかるので、誠にラッキーであった。ここで若い医大生7名(男子学生4名、女子学生3名)と私と8名のパーテイの今山行のメンバーが全員揃って、早速出発した。
若者7名はワンゲル部に所属しており、大きなテントを2張と食料を分担しながらも重くなったザックを担いだ。それにもかかわらず、足の運びがとてもしっかりとしていた。さすが若者たちである。パワーとエネルギーが私とはまるで違っていた。私は羨望の眼差しで彼らを見つめながら最後尾に付いた。
美濃戸山荘前の登山口で正面を見上げれば、遮るものが一切ない青空の下に真夏の陽光を浴びた阿弥陀岳がギュッと聳えていた。この地点で見えた阿弥陀岳は孤高そして威厳を備えて我々を温かく迎え入れているかのようだった。ここから赤岳鉱泉のルートと分かれて柳川南沢行者小屋方面へ向かった。登山道は鬱蒼と生い茂る樹林帯の中にあったが、時折木々の隙間から真夏の陽光が肌を刺した。汗がシャツからにじみ出るほど暑かったが、ちょっと休憩すると山の涼風が火照った体を冷やしてくれた。また、柳川南沢のせせらぎがBGMとなって気持ち良く響き、若いメンバーたちのはつらつとした元気な姿は爽快だった。道は歩きやすいが周囲は木々のため全く展望がなく、さらに緩やかな上りが長く続いた。出発して約3時間が経ち、歩き疲れたというよりも飽きてきた頃に目の前がパワーっと開けて、横岳の稜線と純白の雲そして真夏のスカイブルーが見事に広がった。凄いぞ!奇怪な横岳大同心の岩峰が独特の姿を演じて我々の前に映ってきた。この光景に全員が歓喜してカメラに収めた。そして1日目のゴール・行者小屋に15:30に到着した。若者たちはテキパキとテントを設営し、その後はワインで乾杯し一日目を締めくくった。
翌朝、抜けるような青空が広がり、中岳を挟んで右に阿弥陀岳、左に赤岳があたかも我々を呼んでいるかのようにスクッと立っていた。平日であったので、テント場及び小屋で宿泊した登山者は少なかったので、落ち着いて準備を整えてテントを置いて6:30amに出発した。
標高2350mの地点にある行者小屋テント場の朝は肌寒くヤッケを装着していたが、
歩き始めればすぐに暑くなりすぐに脱いだ。テントなどの重量がかさむ物が無くなったザックは軽量化されて、先頭のIさんの歩くスピードはさらに上がり、雪の季節では大雪崩の危険箇所の中岳沢を経由して中岳ノコルに着いた。ここでやっと南アルプスの山々が眺められた。 ちょっと休憩してから阿弥陀岳山頂を目指して急峻な山肌に取り付いた。鉄の梯子そして鎖を丁寧にしっかりと使って汗をかきながら
やっと阿弥陀岳に8:10amに登頂した。全員の顔には笑みがこぼれ、握手を交わして登頂の喜びをお互いに確認し合った。これが山の醍醐味である。
続々と山頂に登山者たちがやって来た。平均年齢が65歳前後と思われる茨城県水戸市から来た10名パーテイの男性リーダーにカメラのシャッターを押してもらった。そして、こちらからも彼らにシャッターを押してあげた。そのときに彼らが発生した掛け声は登頂の喜び以上のパワーを感じ、これも山が醸し出す魔力と思った。南アルプス横の雲上からは富士山も顔を出して、おおらかに我々を迎えているようだった。ここでは15分ほど休んでから東隣に大きくデーンと構えている八ヶ岳主峰の赤岳に向かった。8:25am
私は阿弥陀岳下山途中で石につまずいて、転倒の危険が生じたが先行していたFさん・Nさんに支えられ助かった。危機一髪だった。ありがとう!感謝します。
中岳ノコルでは偶然にも千葉大医学部の年配の女性医療者達が休憩していたので、会話が弾んだ。ハイマツに囲まれた細い稜線上の登山道を進み中岳頂上を越えて、鞍部の文三郎尾根との出合いに出た。ここからは滑りやすい赤っぽい砂礫のジグザクの上り道になった。そして赤岳山頂直下のゴツゴツした岩場に張ってある鎖に安全を託して進み、最後の梯子を慎重に通過して10:35amに頂上に達した。ヤッターの気持ちで歓び合い、そして無事に登頂した安堵感を握手で表してから記念撮影に興じた。雲もなく大きく広がった碧空は宇宙の神々しさを感じさせ、北岳・甲斐駒ケ岳・仙丈岳の南アルプスが手に届きそうな位置に連なっていた。また木曽駒ケ岳~北アルプスの穂高岳・槍ヶ岳が遠くの雲上に顔を出している絶景にうっとり見とれてしまった。北に目を移せば赤岳~横岳のゴツゴツした岩峰の稜線となだらかな硫黄岳が続き、その奥には北八ヶ岳の天狗岳や縞枯山・北横岳~蓼科山が連なり、八ヶ岳連峰の個性を十二分に示していた。
抜群の天候に恵まれたと同時に若い岳人7名と一緒に八ヶ岳を登れた感動は極上であった。若者の馬力・パワー・エネルギーを一杯頂戴し、とてもハッピイな気分となった。また岩稜の脇に可憐に咲いていた紫色の高山植物イワギキョウの花に癒された山行だった。
リーダーのIさんそして他のワンゲル部員には大変お世話になりました。
本当にありがとうございました。また機会があったらご一緒しましょう!
コースタイム
7・28(月)美濃戸出発12:00pm → 柳川南沢 → 行者小屋15:30
7・28(火)行者小屋出発6:30am→ 中岳沢 → 阿弥陀岳山頂8:10 8:25
→ 赤岳山頂10:35 11:40 → 地蔵尾根 → 行者小屋13:35
下山14:30 → 美濃戸山荘登山口16:45 → やまのこ村駐車場
帰着16:55
南アルプス・北岳(3192m) 2014・8・22(金)23(土)
南アルプス・北岳(3192m)
2014・8・22(金)23(土)
中村由博
標高5895mのキリマンジャロを登頂するトレーニングには富士登山が一番似合うのだが、世界遺産に登録された現在は登山者が多すぎるのが難点だ。また先月の7/12~13に富士登山をキリマンジャロで共にする山仲間とやったばかりだったので、今山行は日本で標高第2位の3193mの北岳を狙った。北岳の登頂後は間ノ岳(3183m)~西農鳥岳(3050m)~農鳥岳(3025m)の標高3000mの尾根歩きを計画した。
先月、大雨の影響で夜叉神峠~大河原の道路が不通になっており、甲府駅からは奈良田経由で大河原登山口に入らなければならない。そのために8/22(金)甲府駅発3:00amのバスに乗って登山口の大河原には6:20amに到着した。
6:30amに出発した。野呂川を挟んで見える北岳山頂は、限りなく透明に近い宇宙色の空の下にスクッと気品を持ち合わせた様に聳えていた。上空には一かけらの障害物もない抜群の快晴であった。そして、大樺沢の純白の雪渓がアクセントになって北岳の特徴を顕著にしており、雪渓を見ていると登頂意欲が湧いてきた。野呂川に架かる吊橋を渡り広河原山荘横を過ぎると本格的な登山道に入り、大きな木々に覆われて鬱蒼とした白根御池小屋ルートを選んだ。樹林帯の中は木々で真夏の直射日光は遮られていたが、上り一辺倒の道に大汗をかいた。喘ぎながらも足下に目を移せば高山植物の花々が可憐な姿を見せていた。そこからちょっと進むと視界が開けた場所に出た。ここに新装された白根御池小屋が建っていた。8:23am。
私は新築された白根御池小屋を見たのは初めてであり、21年前に長女が中学1年生・次女が小学5年生と一緒にこのルートを経てこの小屋に1泊したときは古い建物だった。時の経つのは本当に早いものだ。玄関前の椅子に座り休憩し見上げれば北岳山頂とその稜線に並んだ間ノ岳が物静かにこちらの様子を覗っているようだった。
8:35amに「草すべり」の連続した急登ルートに足を踏み入れれば、周囲は青々とした植物たちが夏山を彩り、高山植物のチシマギキョウ、ハハコヨモギなどが足下に賑わいを醸し出していた。それにしても空の色は素晴らしく、形容の言葉が見つからない程に絶景だった!しかし、ギラギラとした直射日光が体全体を射貫くように刺した。白根尾池小屋から草すべりを経由して小太郎尾根分岐(2890m)まで標高差が約740m、広河原からでは標高差の合計が1340mであるので疲れてきた。小屋まで順調に歩くことができたが、歩くスピードは急激にダウンして、1歩足を出すのに辛くなって、ヘトヘトそしてバテバテとなった。さらに悪いことには、両足のふくらはぎが交互にツル状態になった。いわゆる「こむら返り」だ。登っている途中で「こむら返り」になったのは生まれて初めての経験だ。激痛を我慢しながら両足をギュッと伸ばして痛みが消え去るのを待ってから進んだ。この「こむら返り」が3回も襲ってきた。仕方なく、一日目の今日は北岳を越えて県営北岳山荘で宿泊、そして翌日は間ノ岳~農鳥岳~大門沢下降~奈良田への下山ルートが山行計画だったが、ここは潔く縦走を諦めて、「北岳肩の小屋」に宿泊を決めた。
急登そして急登に辟易し、「こむら返り」の恐怖に慄きながらゆっくりと小太郎尾根分岐に10:38amにやっと到達した。そして、いたたまれなく小さな岩の上に腰を下した。もうここまでくれば肩の小屋までのコースタイムが20分~30分である。安心して休むことにした。前方には肩の小屋が水平に近い緩やかな登山道の先に見えて、さらにその奥には北岳の頂上が続いていた。不思議なことに縦走を諦めると急に気持ちが楽になった。ちょっと悔しいけれども、己の体力を知り、「転ばぬ先の杖」「後悔先に立たず」「石橋をたたいて渡る」「用心には怪我がなし」の心境になった。
小太郎尾根分岐からはすぐ隣には鳳凰三山の峰々が大きく羽を広げた様に広がり、甲斐駒ケ岳そしてその奥には八ヶ岳が絵に描いたように眺められた。崇高な富士山も見えて満足した。20分ほど休んでから重い腰を上げて、牛歩の如く進み北岳肩の小屋へ無事に辿り着いた。11:30am。
疲労困憊そして「こむら返り」の恐怖に怯えながらも肩の北岳小屋に着いたので、安堵感に浸った。予約なしでも泊まれるのは非常にラッキーで早速宿泊手続きをした。昔ながらの古い山小屋ながらも「地獄に仏」「渡りに船」「大海に木片」「願ってもない助け」であった。水分・スポーツドリンクを口に含み、パンをかじり大休止した。そして、翌日の大河原発奈良田行バスの時刻を確認してから12:30pmに北岳山頂に向かった。
約1時間の休憩に疲労もちょっとだけ回復したが、小屋に荷物をデポしてペットボトルのお茶とカメラのみの空身であったが、足取りはとても重くて引きずるようにして北岳山頂にやっとの思いで到達した。13:14。
360度に広がる大パノマラに魅了されて、もう先に進むことがない余裕を持って絶景を堪能した。いつもなら30分も休めば下山したくなるはずだが、小屋の夕食の時間に間に合えばいいと覚悟を決めて山頂に居座った。休んでいると登頂者達の大きな歓声が響いた。彼らは韓国から来た13名のパーテイであった。言葉はわからなかったが、登頂の喜びを体全体で表して記念撮影に興じていた。登頂の喜びは国や民族が違っても共通であり連帯感を感じた。南西の方向には端正な富士山が鎮座し、右回りに順次目を移せば間ノ岳への稜線が続き、その右奥には塩見岳がちょこっと顔を見せていた。中央アルプスの峰々には霞がかかっていてはっきりしなかったが、北西方向すぐ隣には仙丈岳が落ち着いて姿を見せていた。南アルプス北部を代表する甲斐駒ケ岳そして鳳凰三山の白っぽい花崗岩の岩肌が個性的であった。このような絶景に囲まれ、奥深い紺青の空の下で時間はゆったりと流れ、至福の時を満喫した。
北岳登頂が4度目となった今山行が一番辛く苦しく感じられた。しかし、山頂で過ごした1時間半以上の時間は最高の贅沢となった。
山嶺の岩に座って一時間。
寂しい・・・という一つの言葉が粟粒のように心に浮かんできた。
だが私はそれを声にできない。
沈黙は認識でない。でもそれは私を一生歩かせる。
歩きつづけ登りつづけるほかに登山者には答えようがない。
「北岳にて」 辻まこと
コースタイム
2014・8・23(金)
広河原出発6:31am ~ 白根御池小屋8:23 8:32 ~小太郎尾根分岐
10:38 11:53 ~ 北岳肩の小屋着11:20 出発12:27 ~ 北岳山頂
13:10 下山14:50 ~ 北岳肩の小屋15:25 予定を変更して宿泊した。
8・24(土)
出発4:12am ~小太郎尾根分岐4:56 ~ 二股5:52 6:03~広河原着7:46
キリマンジャロ 2014・9・12(金)~21(日)
紅葉の涸沢トレッキング3days 2014・10・7(火)~9(木)
紅葉の涸沢トレッキング3days 2014・10・7(火)~9(木)
中村由博
今山行は家内と一緒にモンベル主催のツアー「紅葉の涸沢トレッキング3days」に
参加した。14年前に次女が高校2年生の8月に、僕と一緒に奥穂高岳を登頂した。そのときにテント泊をしたのが涸沢だった。また13年前に山仲間と北穂高岳を登ったときは涸沢小屋に宿泊した。いずれも盛夏であり、紅葉の季節に涸沢に行くのは初めてであった。
第1日目10/7(火)
7:00amに新宿のモンベル店前をチャーターバスに乗れば、車内には既に他の参加者18名が着席していた。我々二人を含んだ全参加者20名とモンベル社のスタッフ・ツアーリーダー3名を乗せたバスは予定通りに出発して目的地の上高地に12:00pmに到着した。
上高地バスターミナルで下車後はスタッフからの注意事項やアドバイスを受け、参加メンバー全員の自己紹介が行われ、ご一緒するメンバーの方々を垣間見た。これは相手を知り、かつ自分を知ってもらうことが人と人とを結びつける。即ち岳人同士相互の連帯感を培い、安全登山に繋がるのは確かである。とても大切である。
上高地は登山基地であると同時に観光地であるので、河童橋では沢山の観光客と登山者たちが記念撮影でごった返していた。梓川はいつ見ても清流を保ち、観ている我々の心も澄んでくるようだ。空を見上げれば一点の濁りもない快晴で、穂高連峰の急峻な峰々が我々を寛容に迎え入れてくれた。
1日目のゴールは徳沢ロッジである。
河童橋にて
河童橋を渡れば、明神池に続く木道は自然探勝道と
なっていた。周囲は湧き出す清水と湿原になっており、清水に疲れた身も心も癒された。明神岳の岩肌が覆いかぶさるように迫っている嘉門次小屋・穂高神社奥宮で休憩した。ここでスタッフからの差し入れのお菓子を戴き感謝し感激した。その後の道中もスタッフからいろいろな差し入れがあったのはとても良かった。明神橋を渡れば、上高地から続く緩やかで良く整備された道はハイキングコースとしては最高であった。梓川河原の対岸には聳え立つ穂高連峰の峰々が見る位置が異なるごとにその個性が顕著となった。
木々に囲まれて鬱蒼そして閑静な徳澤ロッジに15:23に着き、早速ひと風呂浴びて寛いだ。
第2日目10/8(水)7:00am前に玄関の外に集合して準備体操をした。いつも山に入ると体操などはせずにすぐに歩き始めてしまうが、出発前の体操は体をほぐし、かつ士気を高めるのに役立つ。これはツアーの長所であった。標高1562mの徳沢の朝はやはり冷え込んだが、歩けば体が火照り、横尾に到着すると同時に上着を脱いだ。
さて横尾の吊橋を渡れば本格的な登山道に入った。しばらく進めば、沢を挟んだ上には屏風岩が恐ろしいほどに岩肌を曝していた。この垂直に近い岩壁を登るクライマーがいるとは驚きだ。ザイル・ハーケン・・・etcの登攀グッズが頭に過り、そしてパートナーとの絶妙なコンビネーションがあってのクライミングだ。生憎、登攀中のクライマーは残念ながらいなかったが、想像しただけで羨望してしまった。昨日に劣らずの最高の空模様に満足しながら本谷橋に到着した。河原で休憩中にスタッフからまた差し入れがあったので嬉しかった。
本谷橋からは上り一辺倒となった。後から来たパーテイに常に先を越されたが、ゆっくり歩いても、目的地に確実に着けばそれで良しとした。そしてスローながらも高度を稼ぎ目的地の涸沢直下に出れば、奥穂高岳から涸沢岳に至る見事な稜線が屏風絵の如く広がった。「絵に描いたようとはこのことだ!」急峻な山頂と山頂を結ぶ稜線と
スカイラインとのコントラストにため息が出る程だった。遮る雲などは一片もない天空は形容しがたい宇宙色であった。
涸沢にて 疲れ果てながらも涸沢ヒュッテに無事に到着した。13:05
ヒュッテの部屋に荷物を置き、涸沢一帯の眺望が見事に展開する外のテラスに出た。テーブルの前にどっかりと腰を下し、名物になっている「おでん」をつまみにして、生ビールで家内と乾杯した。山で食べるものは全て美味しいが、ここでのアツアツの
おでんは極上であった。鮮やかな紅葉を見られることを期待していたが、その盛りは既に終焉していたが、わずかながらも深紅に彩るナナカマドと黄葉のダテカンバが目に潤いを与えてくれた。ゆったりと時間が流れそして夜を迎えた。
夕食後の、東方向から月が山蔭から顔を出した。偶然にも月全体が地球の影で隠される皆既月食の天体ショーが19:00過ぎから始まった。月は部分的に地球の陰で欠けていき、20:00直前では月全体がすっぽりと地球の影に隠されると、月は赤銅色の不気味な光を放った。普段見慣れている満月とは違った色に観ていた大勢の登山者たちは歓声をあげていた。雲に隠される場面もあったが、涸沢で皆既月食に遭遇できたのはこの上ない幸運だった。
第3日目10/9(木)4:30amから始まる朝食に食堂は大勢の登山者でごった返していたが、小屋のスタッフたちは手馴れており、整然とスムースに食事を提供していた。
朝食後は山岳地特有の寒冷な外気にもめげずに、穂高連峰がモルゲンロートに染まる光景を眺めた。超大物スターが舞台に登場したときにスポットを浴びて妖艶な姿が浮かび上がるように峻峰の面々は輝いた。それは神々しくもあり何物にもまして我々に感動と歓びを与えてくれた。やはり山は最高だ!
6:00amを過ぎると山小屋の玄関前は続々と登山者が下山のために出てきて超満員となった。紅葉の涸沢ではこのシーズン特有の現象は風物詩ともなっている。前夜は我々ツアーのメンバーは一つの布団に2人で就寝したが、3人の部屋もあったと聞いた。これも人気の涸沢であるからと
モルゲンロートに染まる涸沢 我慢しているのだろうか?
6:20amに下山を開始した。本谷橋までの細い下りの登山道では度々渋滞が生じて手間がかかったが、無事に横尾に着いた。ここでは冷えたミカンが振る舞えられた。至れり尽くせりとはこのことだ。ツアーのスタッフたちにまた感謝した。その後は
徳沢でデポしていた荷を受けとり、関西のモンベルツアーのスタッフ3名と分かれて順調に上高地に帰着した。明神の手前で僕の住む町の山仲間Yさんに偶然にも出逢った。涸沢の魅力が岳人達を惹きつけている証だった。
帰りのバスは横列3名の座席で足が伸ばせてゆったりとした車両で貸切だったのはラッキーだった。高速道での渋滞もなく、順調に新宿駅前に帰着した。20:30pm。
お別れにモンベルのスタッフ3名の丁寧な挨拶があり、メンバーの20名は三々五々家路に向かった。
抜群の天候に恵まれてかつ山行が無事に成功したのは偶然にもご一緒した素晴らしいメンバーそしてスタッフの皆様のおかげです。感謝いたします。またどこかの山でお会いできれば最高です。
コースタイム
2014・10・7(火)新宿モンベル店前バス出発7:00am = 上高地着12:00pm
上高地出発12:35pm ~明神 ~徳澤ロッジ着15:23
10・8(水) 徳沢ロッジ出発7:10am ~ 横尾 ~ 本谷橋 ~
涸沢着13:05
10・9(木) 涸沢出発6:20am~ 横尾10:06 10:20~ 徳澤11:30 12:00pm
~ 明神 ~ 小梨平13:25 入浴 ~ 上高地着14:20
上高地発バス16:15 = 新宿着20:30
ゴサインクンド(4380m)NO1 2014・10・27(月)~11・11(火)
八ヶ岳 随想
八ヶ岳 2016・1・28(木)
中村由博
いい子と悪い子。勝ちと負け。
ぼく達は勝手に〇と×をつけてきた。
〇と×のレッテルを貼る生き方はお手軽だ。
ぼく達はレッテルを貼るのが好きな動物。
勝ちが〇で負けが×、本当だろうか。
・・・・
〇と×の間にある無数の△=「別解」に限りない魅力を感じる。
〇に近い△の生き方は、やわらかな生き方だ。
・・・・
生きるということは、たくさんの△の中で、
「別解」を探していくということ。
〇に近い△を生きることは、
「別解力」をつけることだ。
・・・・
鎌田實著「〇に近い△を生きる」より
第1日1/5(火)無風快晴
長野県茅野市にある諏訪中央病院名誉院長である鎌田實さんに雪の八ヶ岳へ向かうために乗った新宿発7:00amの特急あずさの中で偶然にも出逢った。医者であり作家でもある鎌田さんは一貫として住民と共に作る地域医療を実践しておられ、僕は彼の著作からその生き方に共鳴し、彼の作品を読む度に非常に感動していた。列車の中で寛いでいた彼に大変迷惑をかけると思ったが、こんな良い機会はないと思い早速話しかけた。彼はチェルノブイリには30回も行って医療支援をしており、またイラクの難民キャンプで診療もしてきた医者だ。出逢ったのは僕が下車する茅野駅に到着する直前だったのでゆっくりと話をする時間がなかったのが非常に残念だったが、彼からサインをもらい握手をしてすぐに別れた。2016年初頭の1月5日(火)に鎌田實さんに会えたことは僕にとっては誠にラッキーだった。「今年は縁起がいいぞ!」
僕も鎌田實さんも茅野駅で下車した。今山行の同行者のMさんと駅でおち合い、今夜宿泊する山小屋(夏沢鉱泉)の迎車に我々2人と他の男性登山者1名が乗り込んだ。
今年は積雪が少なくて雪上車に乗り換えずに桜平に着いたが、そこから先は夏沢鉱泉まで歩かされた。昨年までは夏沢鉱泉の玄関まで送迎してくれたが、今は桜平・夏沢鉱泉間は約30分の徒歩となった。いろいろな事情があるに違いないが、荷物だけでも車で運んでくれたのは助かった。
小屋に着き、早速身支度をして出発した。11:25am。例年より積雪は少ないと云っても、夏沢鉱泉からは標高2000mも超えているので登山道には雪が20cm程積もっていた。トレースはしっかりしていたが、滑りやすいアイスバーンの箇所があったので早速アイゼンを付けて進んだ。今季初めての雪山に来たが、僕は今回でこのコースは4回目なので、気持ちに余裕が持てた。冬季閉鎖しているオーレン小屋横で小休止をしてから、雪が少ないので夏沢峠を経由しないでオーレン小屋から赤岩の頭へ直行ルートをとった。(夏沢鉱泉の小屋番さんが教えてくれたルートであった。)このルートは
樹林帯の中に通っており周囲の景色は見えなかったが、頭上に展開している空は透き通るような青だった。そして雪のホワイトとスカイブルーの饗宴は心を昂ぶらせた。
雪も深く張りつき、難渋した箇所があったか、赤岩の頭と硫黄岳との分岐点に無事到着した。(13:50)ここからの眺める主峰赤岳を中心とした八ヶ岳南部の山々は圧巻である。何度見ても飽きない。ここでほんの5分程休憩していたら、ガスが急激に出現し、強風が吹き荒れてきた。先ほど頭上に展開したあの青空が一瞬に鉛色に変わり、登りで汗をかいた体はいっぺんに冷えきた。荷物をデポして、空身になり硫黄岳山頂を目指した。ガスはあまり深くならなかったが、寒風の中を標高2742mの硫黄岳山頂に14:25に着いた。寒風極寒のために記念撮影をしてから即下山した。ガスのベールで薄暗くなった空の下の赤岳・阿弥陀岳がこちらを見て憐れんでいるようだった。樹林帯に入れば風もなく静かな雪山ハイキングとなって、無事に夏沢鉱泉に帰着した。16:25。
第2日1/6(水)快晴
東天狗岳を目指して7:05amに夏沢鉱泉を出た。オーレン小屋から左に折れて、ゆっくりと歩き少々疲れてきたなと思ったら、箕冠岳に着いた。そこで男性1名・女性2名のパーテイが腰を下して休んでいた。彼らは天狗岳を目指していたが、ハンパでない突風が吹き荒び危険を感じたので根石岳まで行って撤退してきたという。うーむ!?
「うーむ! とにかく行ける処まで行こうや!」と暗黙の了解をとりながら先を急いだ。森林限界を出た瞬間に想像をはるかに超えた猛烈な風が我々の体を打ちのめしてきた。根石岳手前の鞍部でピッケルを使った耐風姿勢をとったが、身体が宙に舞うような突風にはもはや為す術もなくMさんの「やめましょう!」の一言で撤退を決定した。山にハマって35年間にも体験したことのないもの凄い暴風の襲来を受けて、自然の恐ろしさを思い知らされた。下山と決めたら気持ちは落ち着き、いろいろなことが頭に過ぎった。
天狗岳登頂の願望は簡単に崩れ去った!この撤退は敗北か?
登頂が〇なら、撤退は×になるのか?
昨日は硫黄岳を登頂し、今日は天狗岳を諦めた。
今山行は〇でもなく×でもない△としておこう!
コースタイム
2016年1月5日(火)快晴
夏沢鉱泉出発11:25am ・・・オーレン小屋12:13 12:30・・・赤岩の頭
113:55・・・硫黄岳山頂14:25 下山 往路を戻る・・・夏沢鉱泉16:23
1月6日(水)快晴・暴風
出発7:05am オーレン小屋8:08・・・箕冠岳9:10・・・ 根石岳手前
鞍部9:45 暴風のため撤退・・・オーレン小屋・・・夏沢鉱泉11:18am
八ヶ岳 2011・7・16(土) 7・17(日)
中村由博
例年より梅雨明けが早く、3連休にはどっと山へ行く人が多い中、ご多分にもれず八ヶ岳へMさんと一緒に行ってきた。Mさんとは6年前に九州の九重山に登った時に偶然にも出逢った山仲間だ。当時Mさんは九州に勤務していたが、その後東京に転勤となったので、奥武蔵の日和田山・丹沢塔ノ岳をご一緒したことがある。山が縁で素晴らしい人と出逢うと人生に潤いがでてくる。Mさんとは2年半ぶりに山行を共にすることになり、八ヶ岳へ行くことになった。
7月16日(土)新宿発7:00amのあずさ1号に乗る予定が、ホームには溢れんばかりの人・人・人・・・でごった返していた。機転が利くMさんが予定を急きょ変えて、隣のホームから出る7:18発の臨時特急に乗る列に並んでくれたので、自由席でも座席を確保できた。誠にラッキーだった!Mさんの一瞬のひらめきが功をなした。Mさんに感謝だ。あずさ1号はラッシュアワーの通勤電車のごとくギュウギュウ詰めの乗客(登山者)を乗せてホームを出て行った。それもそのはず梅雨が明けた途端の3連休(7/16~18)は、山好きにとってはまたとないチャンスで、我々もこのノリで八ヶ岳へ向かっている。想いはみな同じ。人間、何かとやることが同じになるものだ。我々はゆったりと座りながら、いろいろな話に花を咲かせながら楽しく車中を過ごした。9:48amに茅野駅に到着した。予約していたタクシーのドライバーが改札口に迎えに来てくれた。
タクシーは医師であり作家の鎌田實さんが病院長を務めていた「諏訪中央病院」の横を通り、美濃戸口へ向かった。鎌田實さんの著作が好きで過去に何冊か読んでいるが、今ちょうど「人は一瞬で変われる」を読んでいる最中だったので感激した。
人はいつも小さな後悔を胸にとめている。
あの日、もう少し別の対応ができたら・・・。
あのとき、もうちょっと努力したら・・・。
私の性格が、もっと明るかったら・・・。
昨日とは違う自分になれたなら、もっと自分を好きになれるのに。
人は変わらない、という言葉をよく聞く。
本当なんだろうか。
たくさんの人を医師として見ているうちに気がついた。
変わらない人なんていない。
人は変われる。
しかも、変わるために、長い人生をかけて無意識に準備をしていた人もいる。
大事な一瞬は、誰にでもやってくる。
しかし、見過ごしている人が多い。
大切な一瞬は、決して1回ではない。
その一瞬を見過ごさないことが大事だ。
一つの言葉や、一人の人との一瞬の出会いで、
人生を変えた人たちを見てきた。
人が変われる瞬間があるのに気がついた。
性格が変わりにくくても、行動パターンを変えることはできる。
優しくない性格でも、優しい行動をしていると、
十年もすると、性格も優しくなっていた。
生活習慣を少し変えているうちに、
人生そのものが変わっていることに気がついた。
鎌田實著「人は一瞬で変わる」集英社より
鎌田實さんは1974年に諏訪中央病院に赴任した。その当時、脳卒中の死亡率は長野県が全国で2番目に高く、その中でも病院のある茅野市がワーストワンであった。
彼は脳卒中を減らそうと、年間80回、夜に公民館を回って食生活改善の健康づくり運動を始めた。食生活改善すなわち減塩運動で脳卒中を劇的に減らすことができた。
そして、長野県は健康で長寿の県、老人医療費が全国一低い地域に生まれ変わった。
長野県下の市の中で茅野市が最も低く、予防医療の先進地として評価されている。医療が地域に結びつき、予防から健康増進へと見事に成功した。凄い!地域に密着した医療を実践していった鎌田實さんと諏訪中央病院の医療スタッフたちと地域の人達の
素晴らしい実践もこの本に載っていた。ぜひ一読を薦めます。
さて、タクシーは大勢の登山者が出発の身支度をしていた美濃戸口に10:20amに到着した。過去に何度もここにきているが、こんなに大勢の登山者を見たのは初めてだった。この様子では予約はしているものの、混雑が予想される硫黄岳小屋の宿泊が心配になったが、3連休だから仕方がないと思いながら早速出発した。
日差しが強いので日焼け止めクリームを頭・首・腕にたっぷりと塗り歩き始めれば、すぐに汗が噴き出た。真夏の炎天下の登山は本当に暑くて厳しいが、気の合うMさんと世間話などをしながら歩き美濃戸に着けば、その真正面には阿弥陀岳が木々の間からスクッと聳えているのが望まれた。(11:40)大休止をとってから行者小屋方面と分かれて、
赤岳鉱泉方面へ向かった。(12:10)
堰堤広場そして林道の終点に達し、柳川北沢の橋を渡ると本格的な登山道になった。
沢筋の木道を注意深く歩き、石を跨ぎながら進めば赤岳鉱泉に13:55に到着した。
ここでも登山者たちが多く、カラフルなテントも沢山設営してあった。小屋前のテラスでお茶タイムをとってから硫黄岳に向かった。ここからは鬱蒼とした樹林の中にある急な登山道が続いていた。展望もなく・只々暑く・喘ぎながら汗をかきながらのいつものパターンで歩けば体力はとても消耗した。そんな時に木々の間から見えた赤岳と阿弥陀岳の勇姿に心も体も癒された。そこから少し進めば、パアーっと開けた赤岩の頭に着いた。(16:05)この開放された空間が我々を喜ばせてくれた。阿弥陀岳~赤岳~横岳~硫黄岳そして北八ヶ岳の峰々までの360度の眺望に非常に満足した。ザレた砂地が続く先には硫黄岳が目と鼻の先にあった。すると硫黄岳から下山してきた男性が通りかかったので彼にカメラのシャッターを押してもらった。ナント彼は今朝、観音平を出発して編笠山~権現岳~キレット~赤岳~横岳~硫黄岳を縦走して、今夜は赤岳鉱泉に泊まると言っていた。凄い!
さて最後の踏ん張りだ。滑らないようにザレた溶岩の上を慎重にゆっくりと進みやっと硫黄岳山頂に着いた。(16:43)やれやれだ!広い山頂には我々だけだった。
南八ヶ岳から北八ヶ岳の全貌が見事だ。そして遠くには北アルプスの峰々が広がっていた。二人だけの頂上は静かで落ち着いていた。いいなあ! 山って最高だ!
17:00にケルンが積んである先の硫黄岳山荘に向かった。足下にはコマクサの群生が優しく我々を迎え、今日の行程のフィナーレーとなった。硫黄岳山荘着(17:24)
やはり小屋には沢山の登山者たちがいた。宿泊者数は170名ほどで我々の食事は3番目の18:30だったので、食事までの時間を玄関前の椅子に座りビールを飲みながらMさんと楽しい一時を過ごした。これぞまさしく至福というものだろう。
夕食後の寝床は普段は談話室となっている部屋を当てられ、2枚の布団に3人ずつの割合だった。このぐらいの混雑加減なら、まだいい方だとのことで消灯8;00pmに就寝した。
7/17(日)はご来光を拝むために硫黄岳山頂を目指したが、時間的に間に合わず小屋の横で眺めた。東空から太陽が昇り、西には月がまだ高く留まっており、太陽・月が協奏しているようだった。
朝食も3番目で遅く、食後7:00amに小屋を出発した。ここからは岩稜の縦走路となり慎重に梯子を伝わり、鎖を使いながら横岳山頂に着いた。これ以上望まれない程の素晴らしい天候と抜群の景色にしばしうっとりした。富士山をはじめ南アルプス~中央アルプス~北アルプス~浅間山~奥秩父の峰々が大パノラマの如く展開した。
もう何も言うことはない。ここへ来てよかった!
行き交う登山者が多く、鎖場ではちょっとした渋滞を生じたが、明日が休みだと思うとゆっくりとポレポレ精神で行くことに決めた。真夏の標高2700m以上の稜線上は灼熱の太陽の下だが、涼風がとても爽やかで気持ち良かった。危険な岩稜を抜けて地蔵の頭に着いた。いつ観ても地蔵さんの顔は穏やかで慈愛に満ちているようだった。
(9:45)家族連れやツアー登山に参加している登山者たちの満足げな顔が印象的だ。特に小学校低学年の子供を連れている家族を見る度に、自分もこのようなときもあったなあと感慨深くなった。今度は孫を連れてくるぞ!
赤岳展望荘でトイレを借り、赤岳頂上直下の急登をゆっくりと1歩1歩確実につめて八ヶ岳主峰の赤岳山頂にやっとたどり着いた。(10:50)。Mさんと本当に登頂したんだの思いで固い握手をして記念撮影に興じた。山仲間って最高だ! 赤岳は26回登頂したことになった。
赤岳山頂には次から次へ続々と登山者がやってきた。その全員が笑顔でとても爽やかだった。苦しくて辛ければ辛いほど、それが解放された時の喜びが顔に表れる。これがいいんだよなあ!これだから山はやめられない。
この後は中岳を越えて、阿弥陀岳を登頂してから行者小屋経由で無事に美濃戸口に下山した。
2日間とも抜群の天候に恵まれ、素晴らしい山仲間と八ヶ岳を縦走し、寛大な山の懐に抱かれた喜びは一生の思い出となった。
Mさん2日間、本当にお世話になりました。ご一緒できてとても楽しかったです。感謝いたします。さて次の山行はどこにしましょうか?
2011・7・16(土)
美濃戸口発10:45~美濃戸11:40 12:05~赤岳鉱泉13:50
14:30~赤岩の頭16:06 16:12~硫黄岳16:43 17:00~
硫黄岳山荘17:24 宿泊
7・17(日)
硫黄岳山荘出発7:00~横岳8:08~赤岳10:53~阿弥陀岳13:12~行者小屋14:50~美濃戸17:10~美濃戸口18:08
東日本大震災そして福島第一原発からの放射能汚染の危機が連日連夜繰り返し報道される中で山に入るのは、不謹慎なことかもしれなかった。しかし、山ですれ違った人々の明るい笑顔に元気をもらった。そして諏訪中央病院の鎌田實医師の活躍ぶりを
再認識できた。
彼はチェルノブイルやイラクへ数十回も医療行為で足を運んでいる医師でもある。
街が滅びようとしていた。村も森も死のうとしていた。1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国(現ウクライナ)のチェルノブイル原子力発電所4号炉で大爆発が起きた。放出された「死の灰」は風にのり、多くは風下のベラルーシ共和国に下り落ちた。それから14年、チェルノブイルの悲劇は、その大きさを徐々にはっきりと現しはじめた。
汚染地帯には白血病や甲状腺障害の子供が多く、ベラルーシ共和国自身ではその子供を救うことができない。僕は早速JCF(日本チェルノブイル基金)というNGOを設立した。・・・・
子供たちには罪がない。子供たちを何とか救ってあげたい。・・・
それから何十回も医師団を派遣し、医療機器・医薬品を現地に送ってきた。
・・・・・・・
鎌田實 著 「がんばらない」 集英社より