たんぽぽ舎パンフNo.53 大事故の前に原子力から撤退を (小出裕章著)

たんぽぽ舎
パンフレット
日本の原子力推進策は破綻した
53 大事故の前に原子力から撤退を
  第二刷 2003年 6月発行
 小出 裕章(京都大学 原子炉実験所)著
 32ページ 400円

目次

京大原子炉実験所に勤めた理由
石油が足りないといって、戦前、日本は満州・中国侵略へ
石油の可採年数(推定値)は実はインチキな数字

石油が無くなると脅かされて原子力へ入った私
一番多い資源は石炭です
原子力(ウラン)一番貧弱な資源ですぐ無くなる
燃えないウランの利用は可能か?
「燃えないウラン」をプルトニウムに変換することができない
世界中が取り組んだが高速増殖炉はできない
一番熱心だったフランスも失敗し撤退
高速増殖炉は実用化できない-その証明
原子力の夢は幻だった、逆に大変なことを背負い込んだ
原子力の利用は「大量の汚染」の連続
六ヶ所村の危険な地下貯蔵
低レベル放射性廃棄物ですら「300年のお守り」が必要
もっと大変なことがある=高レベル放射性廃棄物
「高レベル放射性廃棄物ためたまま、子どもたちに未来を受け継がせることはできません」
「NUMO」(ニューモ)の日本語訳は正しくは日本核廃物管理機構だ
日本の原子力発電は広島原爆の90万発分の「死の灰」(ごみ)を作った
原発の大量のごみ(死の灰)をどうするか-わからない
このごみは100万年もお守りし続けなければならない
「地下に埋める」案(政府の方針)はムリ、日本は地震多発の国
使用済み燃料の「中間」貯蔵はまやかし
高レベル廃棄物の貯蔵施設は東京も適地
地震国日本の危険-大事故が起きる前に原子力から撤退を
京大原子炉が京都に建てられなかった理由
兵庫県南部地震は広島原爆90発分(マグニチュード7.3)
東海地震は広島原爆1000~3000発分
原子力発電所が壊れたらどんな被害が出るか-チェルノブイリの事実
土地の汚染-日本全土の3分の1がダメに=放射線管理区域になる
何をなすべきか-私の反原発は反差別です
Nuclearを訳す場合、日本では使い分けされてきた
朝鮮民主主義人民共和国は原爆などできない
大量の核兵器保有国と、実は核兵器など持たない国と
米空軍ホーナー司令官の発言は当たり前の論理
日本はプルトニウム(核兵器の材料)を大量に持っている国
高速増殖炉はエネルギー源にならないが、核開発では重要な役割
原子力を続けたい最後の動機は核武装。日本は「悪の枢軸」の筆頭の国だ
テロが生まれる理由を知り、その原因を除くことが大事
沢山のエネルギーを消費する米国・日本と少量のインドなどの格差
世界60億人のうち13億人が絶対的貧困・食べ物が無いという事実
米国のジョージ・ケナンの言葉
米国が不当にアフガニスタンに攻め込んだ本音
イラクへ攻め込む理由も同じ-石油が狙い
軍需産業で金儲けしてるのはどこの国か
米国は核兵器を持って良いが、他の国は持ってはいけない
「アメリカ合州国」が正しい、合衆国は誤訳だ
「教育」を問う、「報道」を問う

 

質疑応答


 皆さん、こんにちわ。小出です。錚々たる皆さんの中でお時間を頂きましてたいへん恐縮ですが、折角お呼び頂きましたので90分ほど話をさせて頂きます。今日、聞いて頂きたい中身はお手元のレジメに含めてありますので、それに沿って話します。

京都大学原子炉実験所に勤めた理由

 私は京都大学の原子炉実験所という所で毎日原子炉や放射能を相手に仕事をしています。私がそんな職場に入ってしまった理由は、まだ純情な時代、中学や高校で学んでいた頃に、人類の将来は必ず原子力だと深く思い込み、大学に入る時に工学部の原子核工学科にどうしても行きたくて、そちらに進んだからです。私は東京で生まれました。下町の上野で育ち、68年に大学に入りました。当時60年代には東京の中でも連日のように原爆展が開かれていて、広島・長崎の原爆がたいへん悲惨な被害を生じたという知識が広く行き渡っていました。その一方では1966年に日本で一番初めの原子力発電所、東海1号炉が動き始め、「原爆はたいへん悲惨だが、あれだけの悲劇を生み出した力を『平和利用』に使えばたいへん素晴らしいものになる」と聞かされました。特に「日本はエネルギー小国だし、社会を支えている化石燃料はすぐ枯渇する。そうなれば将来は原子力しかない」と聞かされまして、私はそれを信じてこの道に入ったわけです。入ってから自分で勉強せざるを得なくなり、自分が思っていたことは本当なのかどうか検証せざるを得なくなりました。その為に作った図が今見て頂いているこの図です(図1参照)。

石油が足りないといって、戦前、日本は満州・中国侵略へ

 石油の可採年数推定値の変遷を描きました。横軸は西暦で1920年から2000年まで描いてあります。縦軸は、石油があと何年保つと考えられるかという推定値を書いてあります。例えば1930年という年に、石油はあと18年しかないと推定されました。この年は前年の1929年に世界大恐慌が起り、これからの世界を作っていくのは大変なことだ、特に列強というような国になろうとすれば経済をどうするか、エネルギー資源をどうするかということが大変な課題だという危機感の中でこの年を迎えます。そして、石油はあと18年しかないという推定だったわけです。そうしますと、大切な資源である石油の権益をどうやって抑えるかということが世界各国の深刻な課題になりました。資源小国である日本は翌年から満州へ侵略を開始することになりました。日本から見れば15年戦争という長い戦争の時代に突入するわけですが、10年経って1940年になった時には、石油の可採年数推定値はなんと23年になりました。石油があと18年で無くなるという1930年の推定がもし正しかったのであれば、10年経ってしまえばあと8年しかないということにならなければいけませんが、そうではなくて逆に23年分あるという推定になったわけです。有難いことだと思ったと思います。それでも石油があと23年しか無いなら大変だということになりました。当時日本は中国大陸を侵略していたため、世界から制裁を受けていました。ABCD包囲網、アメリカ・ブリテン・チャイナ・ダッチというABCDという頭文字の国々から石油の禁輸という制裁を受けました。そうなると国を支えていくことが出来ない、これでは仕方がないということで南洋の石油権益を押さえようと太平洋戦争に突入しました。それからもまた長い苦難の戦争の時代を経るわけです。

石油の可採年数(推定値)は実はインチキな数字

 戦争が終わり1950年になったら石油はまだ20年あるというわけです。もし、あと18年しか石油が無いという1930年の推定が正しければ、20年経った1950年には石油は一滴も無いということにならなければいけないんですが、20年経ってみたらあと20年あるという推定だったわけです。こうなった時に、石油の可採年数推定値というものは実はインチキなんだと気づかなければいけなかったと私は思います。こういうものに躍らされて国家の命運、或いはそこに生きている人々の命運を決めるようなことは決してしてはならないと気づくべきだったと思います。しかし、気がつきませんでした。その後もずっと石油があと何年保つかということにみんなが心を奪われまして、心配だ大変だという時代を過ごすわけです。ところが、1960年には石油はあと35年あるということになりました。実に馬鹿げたことだということに本当は十分この辺で気がつかなければいけないわけです。それでも、私はこの頃に中学・高校時代を過ごしてきて、昔こんな推定がなされていたということを知りませんでしたから、「あと30年で石油が無くなってしまう」と脅かされ続けたわけです。


(続く)